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80年代のギャラリー巡りと美術手帖と赤瀬川

  学生の時の話。毎週水曜日は講義をとらなくてもいいように工夫して、銀座、京橋、神田へ画廊巡りをしていた。

 銀座の八丁目あたりから銃弾爆撃のように隅から隅までめぼしい画廊(現代美術系だけ)を廻り、神田を抜ける頃はもう夜だった。現在のようにコマーシャルギャラリーなど無かった時代で大概は貸しギャラリー。作家も金を払って展覧会をしていた。なんだか寂しいメカニズムの美術界システムではあったが、一部の企画展以外は、そうでしか発表できない環境だった。
 
 それでも活況を呈している気がした。現代美術に目覚めた学生は、金もないのに銀座をブラブラして新しい表現の毒気にあたって痺れていたもんだ。行く先々のギャラリーでは、作家はもちろん、芸大、多摩美、Bゼミなどの学生が誰かしら居て、出会いがしらで美術論議を戦わせるようなそんなガチな雰囲気があった。

 都美館でやっていたような団体展にかかっている絵がアートだと思っている学生たちには理解しがたい表現がそこかしこにあった。油絵具をこねてキャンバスに塗ることが基本だと思っている学生たちには到底理解できない表現に間近に接している自負もあった。

 80年代初頭の話だから、相当昔の話になってしまった。が、当時ギャラリー巡りをしていると、予定の入っていない週のスペースとかギャラリーの奥まったところに60年代から70年代の作品が常設で展示されていたりしたもので、60年代のダダの作品とか、もの派の作品が何気に並べられていた。今だったら目ん玉が飛び出る価格になってしまった作品ですら当時は画鋲で無造作にとまっていたりしたもんだ。

 めぼしい展覧会が無い週には、画廊廻りもそこそこにして神保町に足をのばし、美術手帖のバックナンバー探しに熱中した。今だったら相当するが、当時はまだゴミ扱いで50年代からのものでも二束三文の値段で買えた。現代美術のリアルな歴史は、美術手帖で勉強したようなもんだ。我らが愛すべきギュウちゃん(篠原有司男)や、(刺激を受けた)美共闘世代の作家(堀浩哉や彦坂)の作品を知ったのも美術手帖からだった。

 雑誌の中ではあるが、そんな現代美術の歴史を見て行ったなかで、60年代のネオ・ダダ・オルガナイザーズに象徴される一群の作家たちの中に、先ほどの篠原有司男と同じくらい変な作家がいた。この間亡くなった赤瀬川原平だ。

 赤瀬川原平、高松次郎、中西夏之の3人で、ハイレッド・センターなるパフォーマンス集団を結成し、美術館やギャラリーを飛び出してアホな(←褒めています)パフォーマンスを繰り広げた。赤瀬川原平は自分のやってきたことに満足して亡くなったかな?と考えたが、そんなことがわかるはずもない。絵画に帰った中西と、今リアルタイムで近美でやってる高松次郎の3人ともに稀有な作家であったと思う。

 というわけで来年、新春の目玉は「赤瀬川原平」特集。青林堂から出た「櫻画報」などの他、尾辻克彦名義の作品も含めて品出し致します(画像の「東京ミキサー計画」はもう並んでいます)。こうご期待!

 今日の国分寺は晴れ。昨日の雨はつらかったね。北海道や東北、日本海側の人たちはもっと大変だが。明日は木曜日ですので定休日。また金曜日に。ではでは。

 今日流れているのは、フランク・ポール。ひさしぶりです。
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by yoshizo1961 | 2014-12-17 13:35 | 美術あれこれ | Comments(0)
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