街が消えてゆく

 国分寺駅の北口側を覗いてのけぞった。建物が・・・ない。

 北口側に用のある時は、小金井寄りのガード下から行くので、駅前あたりの状況には無頓着であったが、駅前から北口を望むと、そこは仮囲いのシートに覆われた取り壊し中の現場と、すっかり何も無くなったビルの跡地なのであった。北口の再開発で消えていくあのごちゃごちゃした街並み。猥雑でも馴染んでいた街並み。見慣れた風景が様変わりして行くのは淋しいものだ。

 たしかに時代の趨勢と変化を避けられないのであろうから、またそうやって街並みは変わっていくものなのだろうから、国分寺もそうなのだろう。いろいろ便利な機能を持った駅前になるのだろうが、どこもかしこも同じ・・・という駅前にはなって欲しくないという気が。

 機能性と安全性を突き詰めていけば、どこでも似たような開発になるのだろう。田舎に帰省して駅前に立つと、地方都市というより東京のどこかの中規模な駅前と変わらず、帰ってきた感など何も感じない。それは自分の田舎に限らず日本中どこへ行ってもおんなじだ。

 同じような高層ビルが建ち、駅ビルに入っているテナントもほとんど同じ。同じファッションブランドと同じシューズショップ。同じドラックストアと同じファーストフード。どこへ行っても凡庸だ。

 中央線文化の中で、同じ寺の字がつく高円寺や吉祥寺に、少々水を開けられた感のある国分寺を盛り上げるいいチャンスなのだろうから、この再開発によって数年先の国分寺が、中央線文化を牽引していくようになればと。うちのお店もその波に乗っかってグイグイ行けたらいいのかもしれないが、たぶんマイペースな道なのだろうなぁ。

 「本の雑誌」2014.2月号の穂村弘の「続・棒パンの日常」で「再」の引力と題した連載エッセイに、父親と一緒に子供の頃に住んでいた町を訪ねて廻る記述がある。跡形もなく、地形そのものがかわっていることも珍しくもなく、父とともに驚きとも嘆きともつかない声をあげた、という。穂村弘のエッセイのテーマとは意味合いが違うのではあるが、国分寺の再開発の後、新しくなった街並みを歩けば、以前の街並みなど思い出せなくなってしまい、嘆きともつかない声をあげてしまいそうだ。でも、いい街になればいいね、と思う。

 今日の国分寺は晴れ、時々曇り。深夜は雪?

 いまお店に流れているのは、クラフトワークの「ショールームダミー」。このあと変えますが、何にしようかな・・・。
b0304265_14552094.jpg

[PR]
# by yoshizo1961 | 2014-01-21 14:55 | 国分寺あれこれ | Comments(2)

ストリックランドの小屋

 ストリックランドとは、サマセット・モームの「月と六ペンス」に出てくる画家の名前である。

 月と六ペンス、という魅力的なタイトルとは相反して、結構重い話である。読んだ方なら頷かれると思うが、芸術にとり付かれた男の狂気にうなされそうになる。
 絵を描くことこそが生きている理由であり、生活という日常には重きを置かない。というより、世俗を断ち切り、絵を描くことのみに専念する日常こそが、彼の存在理由となる。現代に於いても、程度の差はあっても、こういった作家は少なからずいる。世俗の何ものにも拘泥されることなく、ストイックに描き続けられればそれにこしたことはないが・・・。

 タイトルの「月」は、人間を狂気に導くものの象徴として、そして「六ペンス」は世俗そのものを表すそうである。世俗とは、人間のつながりそのものであるから、そこをかなぐり捨てても「描きたい」ストリックランドの狂気は、読む者に畏怖を覚えさせる。そんなに絵が描きたいのかい?とつぶやく読者も多かろう。

 ストリックランドのモデルはゴーギャンである。話しの大筋もゴーギャンの生涯をなぞっている。タヒチの原色の光で描かれた絵画は、いまなお人気が高い。

 ストリックランドが住む島の家の壁には、埋め尽くすように絵が描かれていた。ストリックランドが病死した後、その絵を見た者は、心の震えを抑えきれなかっただろう。その絵のモデルは、ゴーギャンの代表作の「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」だといわれている。読後に、「すべて」が描かれているその絵を隅から隅まで眺めてみても、ため息しか出なかった。

 読んだ当時、ストリックランドの家を小屋に見立てて作品を作った(画像の小屋)。入り口も出口も無い。閉じられた空間の内側の壁一面にさきほど触れたゴーギャンの絵のコピーが貼ってある。例えば奈良美智がよく作る小屋作品のようなほっこり感も無く、小林孝亘が描く小屋のような静寂感も無い。が、一時流行った小屋写真集のような凡庸さとも違う小屋を作りたかった。ストリックランドの小屋は、絵画に対峙する孤高の画家に向けてのオマージュだ。
「月と六ペンス」、お薦めです。

 今日の国分寺は晴れ。今日は少し寒さはゆるい?

 
 本日のBGMはビートルズ。日の目を見なかったテイクを集めたアレです。
b0304265_1643265.jpg

 
[PR]
# by yoshizo1961 | 2014-01-20 16:43 | 本あれこれ | Comments(0)

右豚右豚左豚、右豚右豚時計蝶

 才能がほとばしる時期に、最高の作品をものにすることができたらどんなに幸せだろうか。

 村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」はまさにそんな作品だ。村上龍を、「村上龍」たらしめた作品である。23歳でデビューして、「コインロッカーベイビーズ」を刊行したのが28歳。思考の柔軟さも、冴え渡る言葉の新しさも兼ね備えた、才能全開の作家であった。

 現代美術のうねりに翻弄されはじめた頃、この本が、自分の目指す方向を指し示してくれたように思う。この物語に一貫して流れているのは「破壊」だ。壊すという概念が、漠然としか見ていなかった世界を変えてくれた。自分が普通にそうだと思っていた事柄を壊すことで、新しい地平が見えてくる。物語では破壊そのままで終り、新たに構築するという示唆などなにも描かれてはいないが、概念そのものを壊し、新しい言葉で再構築するという手法で、作品を作り始めるきっかけを与えてくれた。

 そうした影響はパーソナルなものであっても、この作品は、当時、多大な影響を世の中に及ぼしたはずだ。コインロッカーに捨てられた乳児のキクとハシが世界を破壊するまで、呪文のように唱えられる「ダチュラ」は、自分が世界を斜に見る合言葉であった。キクとハシに封じ込まれた心臓の鼓動が常に聞こえる気がした。そしてハシの歌声を想像した。小説というものはこういうものだと自分で自分に刷り込んだ作品でもある。古今東西、名作は山のようにあるが、小説を読むにつけ、善し悪しの尺度の基準は「コインロッカー・ベイビーズ」なのである。

 才能がほとばしる時期と最初に書いたが、村上龍の今はどうなのかはわからない。が、あの頃と同じ情熱と疾走感で「コインロッカー・ベイビーズ2」を書いてくれないだろうか。その時はまた同じようにあらゆるものを「壊し」て欲しい。ずっと書き続けていて、恰幅はよくなった村上龍は自分にとっては、今でもモーストヘィバリットスターである。読んでから久しいのに、アネモネがキクに教えた呪文をまだ言える。「右豚右豚左豚、右豚右豚時計蝶」。

 きょうの国分寺は晴れ。いい天気。今日の昼ごはんは、近くのキイニョンさんで買ったパンでした。おいしいよ。

 本日のBGMは押尾コータローのギターで。「キューティー&ボクサー」を観て以来、あのサキソフォンの曲が聴きたくてしょうがない・・・。
b0304265_16124821.jpg

[PR]
# by yoshizo1961 | 2014-01-19 16:13 | 本あれこれ | Comments(0)

昭和懐かし劇場

 CS放送などで、昔の懐かし系のドラマやアニメをやっているところがあるが、ああいった番組でもっとマニアックな作品を取り上げてくれないかなーと思う。まあ、やってくれたとしても観られるわけでもないので、どうこう言っても仕方がない。が、もし自分がそういう番組制作者だったら、「昭和懐かし劇場」という番組をやってみたい。

 うちのお店の古い雑誌の棚に80年代の「宇宙船」(朝日ソノラマ)が数冊あるが、その中に実写やアニメの古い作品がたくさん載っている。例えば、「超人バロム1」、「スペクトルマン」、「アイアンキング」、「仮面の忍者赤影」、「怪獣王子」、「マグマ大使」、「悪魔くん」、「ミラーマン」、「ジャイアントロボ」、「レインボーマン」、「ウルトラQ」、「ファイヤーマン」、「変身忍者嵐」、「キャプテンウルトラ」、「光速エスパー」、「人造人間キカイダー」などの特撮ものや「魔法使いサリー」や「スーパージェッター」などのアニメなど。こういった作品の中から一編づつ選んでランダムに放送するっていうのはどうだろう。夜中の、皆が寝静まった時間帯に30分番組で予告なし。今週は「ジャイアントロボ」の最終回、来週は「宇宙猿人ゴリ」の初回とか。何の説明も無しでただ番組を流す。でも昭和生まれの年配者が喜ぶラインナップで、若い人にはアピールしないかな・・・。

 もちろん特撮ものやアニメに限らず、ホームドラマ系や時代物もはさんで。たまに時間枠を拡大して怪獣映画とか・・・。

 なんでまたこんなことを考えたかというと、今朝テレビをつけたら、しょこたんの主演映画の紹介をしていて、それがあまりにもばかばかしいので逆に観たくなったのだが、あのばかばかしさっていうのは何だろうって思案していたら紆余曲折の後、「狂い咲きサンダーロード」を経て、赤影にたどりついたというわけ(全く意味が通じないと思いますが)。

 古本も、古い特撮ものもうちのお店では等価なので、要は懐かしいものっていうキーワードに揺さぶられるのでしょうか。古い特撮ものを観るのも、古本を読むのと同じだもんね。

 余談ですが、2年くらい前に原宿のそばで食事してたら隣のテーブルにしょこたんが座っていました。テレビで見るよりほっそりしていてきれいだった・・・です。

 今日の国分寺は結局、晴れ。深夜に雪?

 本日のBGMはクロノス・カルテット。
b0304265_189258.jpg


 
[PR]
# by yoshizo1961 | 2014-01-18 18:09 | 本あれこれ | Comments(0)

「矢櫃徳三」展はじまる

 本日より、「矢櫃徳三」展を開催しております。
 
 矢櫃徳三は、板に文字を彫り彩色した作品で知られる。近年に於いては、明恵上人や南方熊楠の著作を、原稿用紙に「書写」し続けている。

 まどそら堂での展示は、ここ数年「書写」し続けた原稿用紙の束を、そのまま積み上げて提示。言葉の集積なのか、文字の集積なのか。ただひたすら書き写す作業が、何か別の物に変わる瞬間があるのだろうか。

 原稿用紙800冊の重みは作家の思念なのか、それとも書かれた(描かれた)文字そのものの重力なのか。ただ積み上げられた作品はミニマルなおもむきで、白い空間に置かれていたら静謐なシーンを作り出すように見えるが、まどそら堂での展示では、古書に囲まれて、本に同化されるのかそれとも反発するのか。疑問形の問いかけは、いますぐに答えられない表現に、どう対処したらいいのかよくわからないということでもある。視覚として鑑賞する作品でもなく、対峙して考えなければ見えてこないであろうこの作品を、どう感じるか。どう捉えるか。

 作品は来月半ばまで展示しております。是非ご高覧下さい。

 「矢櫃徳三」展

 ニルヴァーナ・無耳法師・ミナカテルラ・ロンギフィラ

 平成二十六年一月十七日(金)~二月十二日(水)
 十三時~十九時  木曜休み

 古書まどそら堂

 今日の国分寺は晴れ。

 本日のBGMはレディオ・ヘッド。「クリープ」を・・・。

b0304265_15303022.jpg
 
[PR]
# by yoshizo1961 | 2014-01-17 15:30 | 展覧会情報 | Comments(0)