カテゴリ:虎の穴あれこれ( 48 )

どうせハゲですよ3

  先日の日曜日、ちょっとうれしかったこと。

 午前中用事があり、妻を連れ立って各々の自転車に乗って出かけた。朝といってももう十時前後だったので、高くなりはじめた陽を背に受けて、青い空を仰ぎ見ながら、悠々とペダルを漕いだ。それほど寒くもないし、この青い空がなんとも清々しく、午後から仕事がなければこのままどこまでも走って行きたいところだった。

 目的地までまだ半ばという地点、走っている道の周りの畑とその土の香りを感じながら、背に受けている陽射しの心地よさに心も浮足立つよう。少し蛇行しながら続く道をのんびり進む。スピードを緩くしたり強く漕いだりして走ることを楽しむ。そんな時だった。前輪の前に伸びる自分の影を何気に見て・・・のけぞった。

 背中に陽射しを受けているので、進行方向に影ができる。走る自転車の車体と一緒になった自分のバストアップの影が自転車とともに走っている。その影の頭頂部、つまり髪の毛の影が、な、なな何と!・・・ふさふさと波打っているではないか!

 しかもそのシルエットはまるでロッド・スチュアートか世良正則か、またはレイジーのポッキーかと思うくらいボリューミーなかたちができており、とても毛が薄い人とは思えない様相を呈していたのだった。それは、陽射しの角度と適度な風が起こすイリュージョンであった。

 興奮した私は、すぐ後ろを走っている妻を大きな声で呼び、伴走する形になった妻に、すぐあの影を見てみろと叫んだ。あのふさふさした髪を見てみろ!と叫ぶ私に、よかったねー、となかば付き合って言ってやったよ感を醸し出しながら答える妻にうなずきながら、日曜日の午前中、走る自転車の心地よさと、ふさふさの髪の妄想に酔いしれたのだった。

 今日の国分寺は晴れ。寒いですね。明日は定休日です。また金曜日にお会いしましょう。

 今日ながれているのは、ケイト・ブッシュ。「天使と小悪魔」です。
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写真はイメージです・・・
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by yoshizo1961 | 2015-01-28 14:52 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

どうせハゲですよ・・・2

 しつこいけどハゲの話第二弾(クリスマスと関係ありません)。

 額の上、両サイドが薄い。いや、薄くなってきた・・・。気になるほど顕著に。毛の密度が過疎化している。このままでは誰も住むものがいなくなり、集落として機能しなくなるおそれがある。・・・どうにかしなければならない。

 日頃のお手入れに不備でもあったのか。それとも老化による経年劣化なのか。生まれたときからすでにプログラムされていたことなのか。ハゲて悲しい年頃でもないからそれほど気にはしていない(?)が、風になびく前髪を片手で無造作にかき上げるたびに、その手ごたえの無さに驚愕する。髪よ、戻ってこい!この我が前頭部、額の上に、髪よ、降臨せよ!などと、叫んでみたところでその声が届くことはない。

 少しくらい薄くたって、いや、ハゲていたって生き死にに関わるわけじゃなし、むしろ薄い分シャンプー代も減ろうというもの・・・。生活にもあらゆる希望にも、髪の毛の密度が影響するわけがない。むしろ開き直って生きて行くきっかけを与えてくれるハゲ・・・なのかもしれないのに。

 日々の目の前の問題のほうがどれだけ重要かはわかっていても、朝、鏡の前で一時でも心はハゲに一極集中する。今日クリアしなければならない重要事項すら凌駕するハゲのインパクト。さっきからハゲハゲと言って気分を害された方がいらっしゃったらごめんなさい。あくまでも自分に言っている話ですから。それと、古本とどう関係があるのかなどと考えないでいただきたい(まったくないです)。

 お店に来て帽子を被っている姿をみとめても、視線を頭に持っていくのはご遠慮ください。どうしても気になるのであれば言っていただければ帽子をとってご開陳いたします。逃げも隠れも致しません。ハゲよ、泣くな!僕たちはこうして生きて行こう!とハゲます自分であった(おい)。

 今日の国分寺はやや曇り。すっきりしません。お知らせ:先日、「星のかんむり」谷村まち子 についてお問い合わせいただいたお客様へ。ありましたよ!ご連絡お待ちしております。

 今日流れているのは、昨日と同じクリスマス用CD。クリスマスなんですな?
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by yoshizo1961 | 2014-12-25 13:42 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

頭の中のひとり言

 昨日の晩、うっすらと考えていたことを書いてみようと思う。自分の中で上手く消化できていないことであって、誰それに向かって言いたいことでもない。頭の中のひとり言みたいなもの。

 みんなそれぞれの居場所で、何かしら考えながら生きていて、昨日も今日も、喜んだり悲しんだり腹を立てたりしながら暮らしている。自分ひとりだけが、喜んだり悲しんだり腹を立てたりしているわけじゃない。誰もがみんなそういう風にしているわけだ。

 たとえばフェイスブックやブログでは、今日はこうだった、明日はこうだというように毎日の日常をさらけ出す人もいれば、ある特定の情報を規則正しく毎日発信したりする人もいる。何かに怒っていてそれを社会にぶつける人もいれば、自分の趣味をご開帳し続ける人もいる。今食べているレストランのおしゃれなメニューをアップすることが命の人もいれば、ただぼんやりと社会と繋がっていれば安心だという人もいるわけだ。

 受け取る側は種々選択すればいいのだから、見たくないものは見なければよい。だからといってつい覗いてしまうから、見なければよかった、または聞かなければよかった情報まで取り込んでしまうことがある。僕は今日こうして生きてきた、私は今日こうして生きながらえた、私はこう思う、僕はこう考える、あなたはどう思う?あなたはこうするべきだ、あなたはこうしなさい、そんなメッセージの渦にめまいを感ずる自分もまた、なにかしら発信して情報の渦をまき散らす。

 自分ひとりだけが何かしら考えているわけじゃない。ご近所さんとすれ違ってこんにちはとあいさつを交わした時に、相手は自分を認識すると同時に今夜のごはんと当面の抱えている問題について考えているのかもしれない。自分もこんにちはといいながら明日の予定を反芻していたりする。ひとりひとりの頭の中だけでもいろんな情報がひしめき合っているのに、他者の情報まで取り込んでしまい過ぎて、情報過多で胃もたれをおこす。

 同じことを繰り返すが、見たくないものは見なければいいのだから、自分でどうにでもなる気がするけれど、そこがそうもいかないのが日常であって、また今日も抱えられないことまで考えなきゃならないことになる。そりゃあ、ネコが可愛いのは仕方ないがネコをみてうっとりばかりしていればいいわけでもなく、安倍晋三の顔を見て日本の将来を憂れいていれば世の中が良くなるわけでもない。情報は渦を巻くのが当然で、逃げるものでも逃げられるものでもなくその情報とどう付き合うかが問題なわけで、結局自分自身の器量次第なんだと思う。

 余裕を持ちなさい、と自分自身が自分に言う。でも、そうできればいいんだけれど、ね?


 今日の国分寺は晴れ。お知らせです。年末年始の営業は、12月29日(月)まで。12月30日(火)~1月4日(日)までお休み。新年の営業は1月5日(月)からとなります。なお、今週の木曜日はクリスマスなので営業します!よろしくお願い致します。

 今日流れているのは、キース・ジャレット・トリオ。ボブ・ディランの「マイ・バック・ページ」が入っているアルバムです。
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by yoshizo1961 | 2014-12-23 14:43 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

笑おう

 やけに寒い空気が足元に流れてくるのは、寒波襲来なのにドア全開でいるためだと思うが、ドアを閉めてしまうと入りにくいかなというのが習慣になっているので、どうしてもドアを閉めることに抵抗を感じてしまうわけだった。

 実際の空気の寒さよりも、もっと寒さを感じてしまうものを見てしまった。それは、先日の「虎の穴」の記録映像における自分自身の顔の表情、くぐもった声、覇気のない振る舞い。鏡では自分の顔をよく見るけれど、動画で2時間、自分を観察するなんてことは初めてだった。

 なんかむっつりした表情。もっと表情豊かにならないのかなー?声もぼそぼそで何を言っているのかよく聞き取れないし。俺っていつもこんな感じなの?(ちょっとショック)。会話を聞いていると感じられるのはかみ合った会話になっていないってこと。人の話を聞いていないし(笑)。相手の話を聞いて、それに対する答えみたいに話しているように見えるが全然違う話をしている(笑)。要するに自分の頭の中で引っかかっていることを無理矢理引っ付けて喋ってるだけ。あー、こんなバカなの、俺って・・・。

 参加メンバーの大導寺くんがきっちり記録を録ってくれたのでこうして客観的に見る機会を得たわけだが、こんなことが無かったらずっと気づかずにいたわけで、ホント、自分自身のことなんて自分自身が理解できてないんだなと思ったよ。

 できるかわからないけど、もうちょっと明るい表情でちょっとくらい冗談交じりの会話でもしなきゃ。ちゃんと相手の話を聞いてね。テレビに出てるタレントさんやアナウンサーが絶えず笑顔なのが何かおかしいと思っていたが、そんなことないな。笑っていたほうがいいよ、やっぱり。映像を観たのは昨日だけど、昨日はそんなことを思いました。今日はそう思いながら笑ってみるけど、ちょっと引きつってますかね(笑)。

 今日の国分寺は晴れ。足元が冷える!

 今日流れているのは、マイク・オールドフィールド。「チューブラーベルズⅡ」です。
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by yoshizo1961 | 2014-12-07 15:00 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

ジョン・ケージでもなくデュシャンでもない

 今日は寒いけど、天気が抜群に良いから気分も高揚(紅葉にかけてます)!

 一昨日は久しぶりの「虎の穴」。出場メンバーはいつもの大導寺シンと小林少年、それと私。Nさん、最近ご無沙汰で淋しいわー(Nさん視点も必要なので参加してくれなきゃ)。今回はニコ生で生中継してみようということで大導寺シンがなんとか設定してくれて生放送してみたわけだが、ぶっつけ本番、表情カチコチ、いつもと全然違う余所行きな展開で話も進まず、業を煮やして中断しようとしたら、すでに途中でフリーズしてた・・・という顛末。

 それでも観ていた人が何人かいたという奇跡!中断した後からいつもの通り話も白熱して「虎の穴」らしくなったが、次回の中継ではあらかじめ始めておいて、あたたまってきたあたりからいきなり生中継というのがいいかも。それにしても肝っ玉の小ささがあらわれる生中継のカメラ目線・・・という自虐的感想もありますが、どんなもんなのか観てみたいひとはコチラ→まどそら堂「虎の穴」さわり部分

 本題の「虎の穴」。一昨日は東経大「葵祭」における展示・これがアートだ!の話から始まった。前回、暫定的に決めておいた「それぞれの天地創造」というテーマはひとまず置き、実際展示を行ってみてどうだったか、どう展開するべきだったか、今後どう展開していくのか、というところ。すでに学内でも討議されている話なのだろうが、また違う視点で考察してみる。実際の展示の話から、作ったり見せたりするところの本質的な話に進展してゆく。

 話は飛びに飛び、全体の流れが整理できなくてうまく伝えられないが、ある地点の話ではこんなことを。製作における表現の動機などは、個人的なところから発せられたり歴史を否定または覆すアンチテーゼとしての表現だったりするけど、ジョン・ケージの「4分33秒」が既成の音楽の概念をぶち壊し、マルセル・デュシャンの「泉」もまた美術の概念をぶち壊してくれたわけだが、そのアンチテーゼとしての作品の意義は大きなものでアートを進化させたかもしれないが、その作品自体はどうなのだろうか?と。高尚な作品…というイメージだと思う者もいれば、その高尚という思いこそがヒエラルキーをつくりだしているのではという者もいて、結局本当のところはジョン・ケージでもなく、デュシャンでもなくアートとしてシンパシーを感ずる対象は、へたくそなギターしか弾けないパンクロッカーだったりする、というところに着地するのであった。

 シド・ヴィシャスの「マイウェイ」が頭の中で反響する中、夜が更けても終わらない虎の穴であったが、次回は今の話を引き継ぎつつ、アートに批評は可能か?というテーマで討議することに。今度はうまく生放送できたらいいな。生で観たい人はニコ動のアカウントをあらかじめとっておいてもらえればと(次回は来年になると思いますが)。

 今日の国分寺は晴れ。ほんといい天気ですな。

 今日流れているのは、一日中セックス・ピストルズ。「ネヴァーマインド」を大音量で。
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by yoshizo1961 | 2014-12-05 15:47 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

頭の中

 頭の中の一瞬をそのまま描写してみます。

あー、蝶みたいに変態してみたい。蝶はどう思っているのか知らないが、蛹から蝶になる時、開放感に満たされるのかそれとも苦しいのか。体のあちこちが調子悪かったり、大病していても、ある日体が硬直してきて皮膚も硬化して半日くらいでカチコチになって、ああ、蛹の日なんだね、と言って少しじっとしていれば背中のあたりにぺリッとひびが入って、中から新しい自分が出てくる。生体的にリセットされているので、病気もなし、あちこちが調子悪いなんてこともなく、生まれたばっかりのぴちぴちだ・・・なんてことがあればいい。

 そもそも元気いっぱいならそんなことも考えず、健康な毎日だろうが、不健康一筋なマンネリ運動不足人間としては、前述の「蛹から蝶」が最善の策なのだが、そうもいかないからちゃんと体を動かしてしょうもない想像で昇華するのはいい加減やめた方がいいと、もう一人の自分が言うのをもう一人の自分が聞いている。

 最近、脳内の記憶とか思考の断片が飛び飛びで落ち着かず、落ち着いて筋道立てることが上手くできずその場その場で行き当たりばったり思考になっていてもそれが良くないのかどうなのかよくわからないので、そうだ、そういうときこそ温泉にでもつかってゆっくりすればいいともう一人の自分がもう一人の自分に言う。

 サッカーくじのビッグの1等が当たって6億円、ナンバーズのロト7が当たって8億円合わせて14億円(1.400.000.000円)が転がり込む想像を強化して想念法でゲットしたらとりあえずこれに〇億円、あれに〇億円と、使い道を温泉につかりながら考えるのも悪くないなと想像するのは、人生を誤解していることかもしれないので少し考え直した方がいいともう一人の自分が言っているのをもう一人の自分が聞き流している。

 どこまでも意味不明な言葉の集積に何の不満を漏らすでもなく書き綴る自分の高慢な脳にこそ、少し温泉の湯にでもつかわせて、意味不明な行いだとしてもそれでいいよと言ってやり、蝶に変態するのがそんなにいいかと聞いてやり、大きなあくびをひとつしたら棚からぼたもちを戒めて、もう少し体を動かしながらとりあえず今やるべきことをやりなさいと自分に言ってみれば、そうだねそうするしかないよねともう一人の自分がもう一人の自分に言うからそうすることにする。

 頭の中の一瞬をそのまま描写してみました。

 今日の国分寺は雨。落ち着いて本でも読みますか・・・。

 今日流れているのは、ブライアン・イーノ。雨にぴったりですな。
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by yoshizo1961 | 2014-12-01 14:49 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

折れそうな棒

 何だか物事というのは、うまくいきかけている時は気にもならないが、ドツボにはまりつつあるときには、どうして小さなことで右往左往してしまうのだろう?

 心を平静に保って対処する術(すべ)を普段から身につけていれば、あたふたすることもなく、物事の本質を捉えられるようになるだろうか。そして的確な対処ができるだろうか?そうした術をどうやって身につければいいのか・・・。 日々の習慣の中で少しづつ学習していくしかないのか、いきなり身につくようなものでもないよね、やっぱり。

ええっ?ということは突然起こる。それに無暗に反応すれば感情に流されて騒ぐだけで何の解決にもならず、かといって感情の発露をおさえることもできない時には、たとえば深呼吸してみるとか、そんな何か意味が無くても間にワンクッション置いて心のさざ波をひとまず落ち着かせることをしなければならない。そうか、深呼吸はいいかもしれない。

落ち着いて言葉にしてみれば、自分が何に動揺してどう感情に流されたか追体験できるが、たいてい後の祭り状態で後悔するだけ。心が爆発しかける前に水をかけたい。落ち着いて、瞬間的に最善の対処を施す脳みそになりたい。

抽象的で何を言っているのかわからないかも?そうだね。個人的すぎる話をこうして書いてもしかたないけれど、こうして書いて鎮静しようとしているのかもしれない。こんな日もたまにあるけど申し訳ない。こだわったり、囚われているのは自分自身なのだということは、頭ではわかっているつもりでも、こころがわかっていない。あー、もっと強くなりたい。

 今日の国分寺は雨。一日中こんな冷たい雨ですか・・・。明日は定休日でお休みです。また金曜日に。

 今日流れているのはイエス。「TALK」です。
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by yoshizo1961 | 2014-11-26 15:37 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

なんにもない

 今日は唐突なお話。

 地球が、明日も地球として在るのを疑ったことが無くても、予測できない突然の災厄で、地球が明日消滅することがあるとしたら、その時、今まで生きてきてやってきたことや、この先こうして生きて行こうと考えていたことが突然終わる事を、どう捉えるだろうか?

 自分が消滅することはあっても、明日地球が消滅することはない。どう考えても。けれども思考実験のつもりで考えてみる。地球が消え去ればもちろんすべてなくなる。土も水も、人も。何にもない。今までの歴史も積み上げてきた知識もすべて。何もないということは、そしてそれを確認する対象すらないのならば、初めから何もなかったことと同じ。思考する主体がないのなら宇宙そのものがない。どこかで宇宙人が思考していたとして、ああ、地球とその思考は消えてしまったなぁと思っていたとしたら、それだけのこととして記憶されることはあるかもしれないが、宇宙人もいなかったらすべて無に帰することになる。

 無、ってなんだろうか。何にもないって?

 なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない・・・という歌は在ったけど。在るという概念、いや、在るという実感があるから無は在る。在るから無い。無を後から実感できるのは、ぐっすり眠って起きた時。夢も見ず、寝返りを打っても覚えていないくらい熟睡したら、その時間には世界は消滅して、無が広がっていたわけだ。眠りについたときは真暗だったのに眼が覚めたときには朝日が射して明るくなっていた。その間の時間の波は飛び飛びに進んでいたのかそれとも停止していたのかまたは時間そのものが無くなってしまっていたのか。自分にとっては世界は消えた?無がそこに在った?

 地球が消滅して思考も消えて何にもなくなった無で、いや、ここにあったんですよ、地球という星が、思考が渦巻いていたんですよ、と言う存在が無い。ここにわたしはいました、家族も、友達も、みんなここにいたんですという私も無い。なんにもない。

 悲しいとかつらいというのでもない、無常が押し寄せる。諦念でもない、無常。知りたいという思いも解りたいという欲求も無常に包まれて見えなくなる。在るのか無いのかすらもわからない。何もないということだけを考えれば考えるほど無から遠ざかる。在る、それは無があるから。無、それは在るの裏返し。それとも在るも無いも思考の内なのか。思考が消えるとき世界は終わる。

 今夜眠るとき無について考えながら寝てみよう。夢で答えがわかるかも知れない。目をつむってから開くときまで、夢も見ず意識も飛んでいたらそれが正真正銘の答えなんだけど。

 今日の国分寺は晴れ。寒いけど。冷えがよくないんだけどなあ。

 今日流れているのは、クラフトワーク。今日は音を絞って。
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by yoshizo1961 | 2014-11-16 14:51 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

東経大に行ってきた

 あいにくの雨模様だが、東経大の葵祭に行ってきた。

 近くにある大学といってもそうそう行くこともないわけで、こういった学祭の折にしかなかなか入ることもできないから、のそのそと行ってきた。虎の穴のおなじみのメンバーが展覧会を開いているということもあり、また、学生気分にも浸れそうで楽しみにしていたが、この雨でいまいち動きが制限されるし、午後からお店もあるしで、そんなにのんびりとはいかなかったのが残念だった。

 坂を上ると東経大の門が。エントランスから校舎に続く導線の脇には紅葉した木々。雨の中をたくさんの模擬店が連なる。思い起こせば大学の芸祭ではほとんどの模擬店が呑み屋であったのに、東経大では酒自体がないのであった。酒の無い焼き鳥一本50円とは・・・などと考えてみたが、1.2年生などはまだ未成年であるからそういった配慮も必要なのかとも思うが、では自分たちの学生の頃は未成年がいようとかまわず酒をふるまう模擬店ばかりだったのはどういうこと?当時は酒を呑むことも自己責任当たり前の前提であったからだろうと思うが、社会は少しづつかわっていくものなのだなあと。

 まあ、そんなことよりも、虎の穴メンバーの作品が気になるところ。いそいそと会場になっている校舎へ。開け放たれた教室ではメンバーを含む数名の学生さんがわいわいと歓談中。おお、これが「東経よ!これがアートだ」か!と写真をバシバシ撮る(そういえば写真撮っていいか聞かなかったが・・・)。

 個々の作品についてはどうのこうの言ってみたいけど、とりあえずその辺のコンセンサスも取っていないので差し控えるとして、感想のみで言うと個々の思いは伝わってきたよ、というところ。虎の穴メンバーのK少年の棺桶にはついお供えをしてしまったし、隣にいた学生さんが手を合わせていたのには笑わせてもらった。Nさんもやりたいようにやってるのが伝わってきてみんながんばっておるなと。いずれ作品については個々に詳しく触れさせてもらおうと思う。

 帰りがけに新しくできた大学図書館を見学。国分寺にこんないい施設があるとは・・・中身の本がどうかは別として、知の源泉が集積される場がこうして学びの場の真ん中にでんとあるのが羨ましい限り。学生よ、学ぶのだ!と大声で叫びたくなる図書館だった。もしこれがまどそら堂だったら(またまた勝手な想像です)1階はカフェ、2階に古本屋、3階にギャラリー・・・かな。そんなわけで、葵祭でした。2日(日)までやってます。東経大の学生さんたちよ、立派な図書館があっても、たまにはまどそら堂で本を買ってね♡

 今日の国分寺は雨。のんびり昼飯してたら開店が30分遅くなりました。すみません。開けた途端、友達が来てくれたのでぎりぎりセーフでした。

 今日流れているのは、ビートルズ。レット・イット・ビ―が鳴り響いています。
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by yoshizo1961 | 2014-11-01 17:08 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)

自由な鳥と籠の鳥

  香港はどうなっていくのか。

  香港の太子という駅から歩いて15分ほどのところに、雀鳥花園(バードガーデン)という小鳥を扱う店と小鳥好きの人々が集う場所がある。以前は別のところにあって観光地としても有名だった。現在も観光スポットとして機能しているが、以前よりは規模が小さくなっている。

 小鳥を飼っている人々が、おしゃれな鳥籠をぶら下げてここに集まってくる。そしてみな自慢の小鳥たちを見せ合っては、のどかな時間を過ごす。日本では公園でお散歩の小犬たちが飼い主に連れられて集っているけれど、その小鳥版というところ。

 小鳥自慢の人々をあてこんで小鳥を販売する業者の鳥籠も所せましと並べられていて、きれいな声で鳴く小鳥たちが優雅に鳥籠の中で遊んでいる。はた目には優雅に遊んでいるように見える・・・が。

 以前、バードガーデンを散策中にその業者の鳥籠の小鳥たちを眺めていると、どこからともなく飛んできた雀が鳥籠からこぼれ落ちた餌をついばみ始めた。それはもうすごい勢いで鳥籠の餌をかすめ取る。香港の雀は日本の雀とほぼ変わらないが、少し体が大きくて羽の色も濃くはっきりしているように見える。

 鳥籠の小鳥は、毎日餌にありつける。飢えるということはない。水も、青菜も。しかし、ずっと鳥籠の中だ。外界とを隔てる籠の等間隔の隙間からしか世界を感じることができない。かたや野生の雀は、毎日自由だ。どこにでも飛んで行ける。外界そのものがない。けれども餌にありつけない日もあれば、大きな鳥や蛇に狙われることもある。鳥籠からこぼれ落ちた餌を一心不乱についばむ雀を、籠の中から遠巻きに見ている籠の中の小鳥。

 どちらがどうだという話ではなく、自分ならどちらの雀がいいか考えてみる。考えるまでもなく、野生の雀・・・を選ぶだろう?と自問する。そうだよね、当然自由な方がいいに決まってる・・・。でもそれは現実を捉えていない?

 自由であることが最優先なら、それについての覚悟が必要・・・ではないのか?頭ではそう考えても、そのリスクをまともに考えたことがないのでは?理想や思い込みで生きてきたのは悪くなくても、自由を得るためのリスクについて真正面から対峙してこなかっただろう?ならば野生の雀がいいって言ったって、説得力がない。

 最後にどうなろうとも、今ここにいる自分が、常に自由でいられるように生きるということは、そう生きるんだという覚悟の上に成り立っているということを自覚していなければどうしようもない、んだろう。自分はどうだろう。野生の雀にしては脆弱なんだろうな、たぶん。

 何でこんなこと考えてるんだろう?香港の学生デモのニュースをみたから?香港の映像を見たから?野生の雀にあこがれても、籠の小鳥でしかないのかもしれないし。お店の前の電線にも雀。自由なんだろうか。・・・もう一度バードガーデンに行ってみたくなった。

 今日の国分寺は雨。寒い。お知らせです。明日は午後から古物商講習会がありますので、お店を開けるのが夕方からとなります。午後4時半くらいから5時半くらいには開けられると思います。よろしくお願いいたします。

 今日流れているのは、フランク・ポール。おとぼけな音楽です。
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by yoshizo1961 | 2014-10-23 15:44 | 虎の穴あれこれ | Comments(2)