2015年 04月 22日 ( 1 )

転がりたい

  昨日の球なんだけど、単純な球なのに、何故か心の奥底でいまだに転がっているのが可笑しくて、なんでだろうと考えてみる。

 たわいもない球なのに。あの球は角材から彫られたのか、それとも原木をカットしてそこから彫ったのか。ふつう、乾燥した角材(あの木はなんだったけ?)から面取りして最終的にノミで削っていくんだろうけど。

 もちろん真球ではなくすこしいびつな、それでも球らしい球のかたちを、ああやって彫りだしていくその過程では、造形的な喜びを感じたり、球というシンプルで原初的な形に込めた思いや呪詛を、形の中に彫り込んでいくのが楽しかったりするんだろうと、勝手に想像してみる。

 しかも彫りあがったその球は、無造作にその辺に転がされて傷だらけになっていく。これがいわゆるスタンダードな彫刻なら、移動するときには傷つけないように毛布かなんかにくるまれて大事に扱われるんだろうけど、転がされて傷ついて、小さな石ころが食い込んでもそれがまたかたちとして取り込まれていくという、そんな扱いこそが正しい在り方である気がする彫刻。彫刻という言葉がふさわしいのかわからないんだけど、彫りだされたあのかたちは、あれでしかありえないというどこか絶対的なちからを備えていて、見る者に迫って来る。

 あの球が転がされて、電車に乗ったりアスファルトの上をゴロゴロ行く姿には、もちろんそれをしている村野くんの表現が乗り移っているんだろうけど、それでもどこか馬鹿馬鹿しく、そうであっても何でこんなことを?という問いをかけることは意味がないと直感的にわかってしまう力があの球にはある気がする。

 結局作っている本人でさえ、その球が何なのかわからなくても、それでよしとするといったどこか突き放した感があり(おれの勝手な想像だけど)、球の側からすればホント球なんだけど球ってなんだ?って自問してそうな球なんで、そういった意味ではあの球の彫刻(しつこいが彫刻かどうかわからないけど)は、かなりすごい。

 転がる球に、何か象徴的な意味を感じ取ろうとするのが普通の鑑賞なら、普通の鑑賞はつまらなくて意味もない。転がされる球に同化して転がされながら自問自答する。なんだかよくわからないんだけど、わからないなりにも、あの球はすごいということはわかる。

 あー、 おれも作品を作りたいよ。自分を凌駕する作品を・・・

 今日の国分寺は晴れ。いい天気で暖かい!やっとこさ春本番ですな。こんないい天気で暖かい日には、古本屋に行きましょう!(なんでやねん)。明日は木曜日で定休日。また金曜日に。ではでは。

 今日流れているのは、ピンク・フロイド。「神秘」です。
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by yoshizo1961 | 2015-04-22 14:28 | 美術あれこれ | Comments(0)