積ん読の山

 11月の19・20日の二日間、ちびまどで国立本店による展示、「積ん読の山」が開催された。言葉通り、積ん読本が並べられた。僕も参加させていただいたが、古本屋の店主としての立場で臨んだので、ちょっとかっこつけてそれらしくしてしまった感も否めない。本来の積ん読本の意味を自己解釈して作品化し、未読のSF本を積んでかたちを作ってみたのだった。

 実際未読の本ばかりで、確かに積み重ねて置いていたので、積ん読本には間違いないが、いわゆる部屋の壁沿いや廊下や枕元に、読まれもせずただ積んであるあの山が本来の積ん読本なのであるから、それをそのまま持って来ればリアルな積ん読本の山となったわけだが、如何せん積ん読の山はまったく脈絡のない本が脈絡なく積み重なっているだけなのでその脈絡の無さゆえに自分には呼応する何かはあっても、他者には何も呼びかけることもないただの本の山となっており、そのまま展示するのもなんだしということで、ちょっとかっこつけてそれらしくしたというわけだった。

 先日ツイッターで積ん読についてのコラムを紹介するつぶやきを見て、ホント積ん読というものをいい表していると思ったのでここでご紹介。これは中日新聞の朝刊コラム、中日春秋に載っていたもの。積ん読についての概略の説明のあと、若松英輔さんの著書『言葉の贈り物』からの引用で、次のような言葉が書かれていた。

《人はいつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける》

 また、こんなことも。

《私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時期の到来を待っている》

 たしかにその通り。積ん読は読まずとも読書なのであった。

 今日の国分寺は晴れ。

 今日流れているのは、エラ・フィッツジェラルドです。
b0304265_13481471.jpg

 
[PR]
by yoshizo1961 | 2016-12-20 13:48 | お店あれこれ | Comments(0)
<< 年末年始お正月休みは・・・ 1978年・原田真二の『タイム... >>