作品と批評

  本日は、先日の“虎の穴”報告です。

 いつものメンバーの大導寺シン、小林少年に加えて、今回は前回から引き続き参加の彫刻家のMさん(実名公表可なのかまだ聞いてないのでいまのところMさんで)と、同じく彫刻家のTさん(Mさん同様いまのところTさん表記で)とわたしで5人の大所帯(!)の開催となった。

 大まかにみれば20代が4名、○○代がひとりという構成で、世代間ギャップはなるべく考えないようにして臨んだわけだが、今後は各世代のメンバーが揃えば、より幅が広がるかも。

 テーマは前回のアートに批評は可能か?を引き継ぎつつ、Tさんの先だっての展覧会の作品について具体的な考察による議論となった。

 全員リアルでTさんの作品に対峙しているので、感想または批評はおおよそのイメージや憶測ではなく、展覧会会場で見た印象そのままをぶつける。それはつまりストレートに作家に突き刺さるので、Tさん本人には多少のプレッシャーがかかるものかも知れないとは思ったが、Tさん自身はそうでもなさそうで、超然として質疑応答していた。

 そもそも批評とは何なのか?という定義から始めると進まないので、Tさんの作品という実例に沿って考察を展開して行くうちに、批評そのものの意味や、その定義に多少なりとも近づけたかも知れない。感じていることは各々に差異があっても、目の前の対象について言及したくなる欲求は誰にもあり、それを感情的もしくは理路整然と表明することが批評そのものなのかもしれない。

 議論のなかでキーワードとなった“ミスリード”という言葉が、批評という行為の本質をかすめたかもしれない。読み違いという意味と、間違った方向に導く考察や批評という意味のどちらにおいても、観た側は作品から受ける印象を自分なりの解釈でもって考察するから、作家の意図するものとは違うかも知れず(違う場合の方がほとんどだと思うが)、勝手に読み違えた解釈が独り歩きしてゆく場合もあり、また作る側でもその解釈に翻弄される場合もある。誤った方向に向かった考察のはずが、いつしか本質になってしまうこともある。

 結局のところ、その作品を一言で定義できるようなことはなく、作った側も観た側も、言葉にならない言葉と、たくさんの言葉を使って言い表そうとすることの両方の感慨でもって作品を論ずるわけで、しかしそれがないことには表現は成り立たないと思うので、批評というのはアートにとって必要なのではないだろうか、と。
 
 個人的に思うことは、他者という存在が無ければ、表現することなどないわけで、他者が存在するということは自分以外の解釈もあるということで、それがすなわち批評であると思う。他者がいなくても自分自身の中だけで完結できる表現もあるということならば、それは自分の中にもう一人の自分が他者として存在している、ということなんだと思う。

 今回の虎の穴では、参加者が各自各様の思いを持ち、共有した部分はどこなのか難しくてよくわからないというところもあったが、楽しい時間でした。みなさん、ありがとうございました。次回のテーマは「トマソン」。赤瀬川原平らによる「トマソン」的なものと、それを取り巻くもの、そこから広げて赤瀬川、高松次郎、中西夏之のハイレッドセンターまで含めた議論を。次回は早くても5月後半、もしくは6月となります。その時期になったら告知しますので、みなさんどしどしご参加ください!

 今日の国分寺は晴れ。暑いです。

 今日流れているのは、ファイヤーマン。ポールマッカートニーのミニマルミュージックです。
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by yoshizo1961 | 2015-04-03 16:25 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)
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