なんにもない

 今日は唐突なお話。

 地球が、明日も地球として在るのを疑ったことが無くても、予測できない突然の災厄で、地球が明日消滅することがあるとしたら、その時、今まで生きてきてやってきたことや、この先こうして生きて行こうと考えていたことが突然終わる事を、どう捉えるだろうか?

 自分が消滅することはあっても、明日地球が消滅することはない。どう考えても。けれども思考実験のつもりで考えてみる。地球が消え去ればもちろんすべてなくなる。土も水も、人も。何にもない。今までの歴史も積み上げてきた知識もすべて。何もないということは、そしてそれを確認する対象すらないのならば、初めから何もなかったことと同じ。思考する主体がないのなら宇宙そのものがない。どこかで宇宙人が思考していたとして、ああ、地球とその思考は消えてしまったなぁと思っていたとしたら、それだけのこととして記憶されることはあるかもしれないが、宇宙人もいなかったらすべて無に帰することになる。

 無、ってなんだろうか。何にもないって?

 なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない・・・という歌は在ったけど。在るという概念、いや、在るという実感があるから無は在る。在るから無い。無を後から実感できるのは、ぐっすり眠って起きた時。夢も見ず、寝返りを打っても覚えていないくらい熟睡したら、その時間には世界は消滅して、無が広がっていたわけだ。眠りについたときは真暗だったのに眼が覚めたときには朝日が射して明るくなっていた。その間の時間の波は飛び飛びに進んでいたのかそれとも停止していたのかまたは時間そのものが無くなってしまっていたのか。自分にとっては世界は消えた?無がそこに在った?

 地球が消滅して思考も消えて何にもなくなった無で、いや、ここにあったんですよ、地球という星が、思考が渦巻いていたんですよ、と言う存在が無い。ここにわたしはいました、家族も、友達も、みんなここにいたんですという私も無い。なんにもない。

 悲しいとかつらいというのでもない、無常が押し寄せる。諦念でもない、無常。知りたいという思いも解りたいという欲求も無常に包まれて見えなくなる。在るのか無いのかすらもわからない。何もないということだけを考えれば考えるほど無から遠ざかる。在る、それは無があるから。無、それは在るの裏返し。それとも在るも無いも思考の内なのか。思考が消えるとき世界は終わる。

 今夜眠るとき無について考えながら寝てみよう。夢で答えがわかるかも知れない。目をつむってから開くときまで、夢も見ず意識も飛んでいたらそれが正真正銘の答えなんだけど。

 今日の国分寺は晴れ。寒いけど。冷えがよくないんだけどなあ。

 今日流れているのは、クラフトワーク。今日は音を絞って。
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by yoshizo1961 | 2014-11-16 14:51 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)
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