表現欲求を抱えて

 今日は暑いね。

昨日は、お店を開けて間もなく、展覧会の出品作家の小谷さんが来てくれて、それから大導寺さん、市川さん、成瀬さん、新田さんと作家の方が入れ替わり立ち代わり来店されたので、作品や日常のことなどいろいろ話を聞かせていただいた。

 みなさん、やはり作品が気になるようで展示の手直しをしたり、追加をしたりと、ご自分の作品をかまっていかれた。それにしてもどの作品も各自各様、特徴があり、訴えかけるものもそれぞれ違ってひとつの括りでおさめ切れない展示となっている。

 各作家の紹介、作品に対しての私的な感想など、明日の定休日明けの金曜日から始めたいと思っているが、今日は、皆さんと昨日話した作品にまつわる話から、どういった表現欲求をもとに制作しているのかといった本質的な部分について考えてみたい。

 昨夜家に帰って、人心地ついて一日を反芻していたときしみじみと実感したのは、「詩」でも「絵」でも「音楽」でも、とにかく何ものかを表現したものについて、話をしたり聞いたりすることが楽しい、ということであった。疲れていても、作品にまつわる話なら頭も回り始める。自分自身、理解を超えた表現欲求に突き動かされて制作することもしばしばあるから、制作する作家の作品を作る動機や、その思いについて話を聞くのは楽しいことなのだ。

 そもそも誰にでも表現欲求はあり、それは制作という形をとらなくとも日常の中でそれぞれのかたちで昇華しているものだと思う。表現したくともその術を持たなければ、他者の表現に身を託して昇華することもできる。たとえばそれは本を読むことだったり、映画を観ることだったり。絵や彫刻を鑑賞して、その世界に自分を重ね合わせることができれば、その思いは満たされるのだ。

 表現したいことがあふれ出て、自分の熱情をさらけ出したいというアーティスト志向の作家もいれば、静かに日常というリアルを描き出して、地に足をつけた活動をしたいと願う作家もいる。どういう方向にむかうべきか悩む作家もいれば、自分なりの、リアルな社会との接点を持つ術としてアートを捉えている作家もいる。なんにせよ、自ら表現して発表する者はすべからくアーティストであるといえるが、厳しい言葉で言えば、その作品の善し悪しこそがすべて、でもある。

 だれもが高みを目指しているが、皆が皆、その高みを感ずることができるわけではない。その評価をするのは社会ではあるけれど、たとえそれが大きな社会という枠組みの中ですぐに評価されなくとも、身近な社会、最小限の社会、たとえば家族や友人、近所の人でもいいから自分の理解者を探し当てるところからはじめればいい。たとえ誰も理解してくれなくても、まず自分自身が自分で評価すればいいのだ。自信を持つこと、結局アーティストはそれが肝要なのである。

 「問う今日と、国分寺詩」展と銘打って展覧会を催しているとはいえ、パブリックな美術館でもなく実力のあるギャラリーの企画展でもない。3坪そこそこの古本屋の、しかも古本に囲まれながらの展示である。それこそ作家活動のキャリアにもなりえない程度の器であるのは重々承知でお願いして、出品していただいている。せせこましい展示空間で窮屈な思いをさせて申し訳ないとも思っている。けれどもこんな空間だからこそ見えてくるものもあるのだろう、とも思う。

 表現欲求を抱えて、それを表出して、自信を持って作家活動を続けて行けば、いつか志すところに届くはず。そういうものだと思う。停滞することはあってもね。作家は作品を作り続けてこそ、作家。だと思うのだった。

 今日の国分寺は晴れから曇り。少し涼しくなってきた。明日は定休日のため、お休みします。また金曜日に。

 今日流れているのはコールドプレイ。「イエロー」が入っているアルバムです。
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by yoshizo1961 | 2014-05-14 16:51 | 展覧会情報 | Comments(0)
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