46年間の死

 袴田事件の袴田元被告がほぼ48年振りに釈放された。事件のあらましは新聞やテレビのニュースで知る程度だが、一体この48年という時間の永さを、どう捉えたらいいのだろうかと、考えてしまった。

 逮捕されてから48年、死刑宣告を受けてから46年。冤罪であったなら、この46年間という途方もない時間をどうしてくれるのか。死を、首からぶらさげて生きる(?)という毎日はいったいどういうものなのだろうか。46年は永いよ。いろんなことを考えたり、したり、泣いたり笑ったりして生きる46年と、死を背負って生きる46年はあまりにも違いすぎる。それが、自分の犯した罪に拠るものであれば仕方の無いことかもしれない。が、そうではなくぬれぎぬだったら・・・。

 あそこが痛い、ここが痛いと言いながらも自分の足でどこへも行けて、美味いまずいと言いながらなんでも自由に食べられる。お金のある無しに関わらず、生活する部屋を持ち、しがらみや業を抱えながらも、とりあえずは自分の意思を持つことができる。嫌なことも楽しいことも悲しいことも全部自分の裁量だ。そんなあたりまえの日常を理不尽に剥ぎ取られることになって、しかも死刑だと言われたら、いったいどうなってしまうのか。

 真実や正義など信用できない・・・そう思うだろうから、本来のまともな思考を捻じ曲がった思考にすり替えて、自分をだますしか生きることができない。でも死刑だから生きられないんだと思えば、もうやりきれなくて涙もでないだろう。けれども、これもたんなる感想にすぎない。その立場になったらという仮定の言葉にすぎず、本当に、死ねと言われて死ななければならない状況なんて想像したってわからない。ただ、現実にそういう状況に落とし込まれた人がいる、という恐ろしさをどう捉えたらよいのか。

 テレビではそんなニュースの後には、町の可愛いパン屋さんの新作メニューの紹介など、たわいのない話題を流している。それが日常、だけれど、常に死を思いながら呼吸する日々を送る人が、この世のどこかには存在するのだという普通からしての非日常が、恐ろしい。

 死刑囚の俳句を集めた「異空間の俳句たち」/海曜社から、ある死刑囚の絶句を。


       
        冬晴れの 天よ つかまるものが無い     尚道


 
今日の国分寺は晴れ。暑いくらい。明日(29日・土曜日)は都合により、14:00(午後2時)からの営業となります。よろしくお願いいたします。

 今日ながれているのはバッハです。昨日、家で「世紀の曲がり角」を口笛で吹いていました。この曲に日本語の詞をつけて歌ったら面白いかなと思って、頭のなかで詞を考えながら吹いていたら、いいのが浮かんだんだけど、今日になったらもう忘れてしまいました・・・。
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by yoshizo1961 | 2014-03-28 16:35 | 虎の穴あれこれ | Comments(0)
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